光の帝国

 韓国での映画のヒットもあり、刊行前から話題になっている『殺人者の記憶法』(キム・ヨンハ著 吉川凪訳 クオン)が、いよいよ今月末には全国の書店で発売になります。
 李箱文学賞や東仁文学賞など韓国の名だたる文学賞を受賞し、たくさんの秀作を発表しているキム・ヨンハですが、日本でも大ヒットした映画「私の頭の中の消しゴム」の脚本も手がけるなど様々な方面で多才ぶりを発揮しています。
 これまでの邦訳作品に『阿娘(アラン)はなぜ』(森本由紀子訳 白帝社)や『光の帝国』(宋美沙訳 二見書房)があります。
「自分の運命を知らないまま生きている」人生をテーマに、ソウルに潜入して普通の市民として暮らしていた「忘れられたスパイ」の24時間を描いた『光の帝国』をご紹介します。

『光の帝国』

 ソンゴンがマグカップをデスクの上に置いてコーヒーを注いだ。
「ありがとう。そうだ、イランの映画がもうすぐ通関するらしいよ」
「よかったですね。入ってきたらまた忙しくなりますね」
「そうだね」
彼が自分の席に戻って座るのを確認してからまたアウトルックを開いた。それまで開いたウィンドウをすべて閉じ、最後のウィンドウを開いた。決定的なメッセージが、とうとうその姿を現わした。

蛸壷やはかなき夢を夏の月

 ギヨンは乾いたつばを飲みこんだ。本当に飲みこんだ、というよりは<つばを飲みこんだ>という文章が一文字一文字頭に浮かんできた、というのがより正確かもしれない。マウスの横でぬるくなってゆくコーヒーを一息に飲んだ。記憶が正しければ、この俳句は間違いなく、四番命令を意味する暗号だ。体をひねって、本棚からミヌム社『世界詩人選』第五十三巻を抜き取った。六十七ページに載っていたのは、確かに松尾芭蕉のその俳句だった。手のひらに汗が滲みだした。こぶしを握っては開き、緊張をほぐそうとした。<六十七>から自分の生まれ年<六十三>を引いた。やはり、四だ。二十年間ただの一度も受け取ったことがない命令、四番命令であることを否定することはもうできなかった。
 この俳句には<明石夜泊>とう序がつけられている。明石は蛸取りで有名な漁場だ。漁夫たちは、穴を好む蛸の習性を利用する。夜のうちに陶の壺を海に沈め、朝に壺を引きあげると、蛸が入っている。壺のなかで、蛸たちは生涯最後の夢を見る。
 ギヨンは詩集をいたずらにめくりあげた。詩と本を利用したこの古典的暗号の有効性を八〇年代に〈再発見〉したのは、三十五号室のイ・サンヒョクだった。乱数表も短波ラジオも必要ない。数巻の本と暗記力さえあれば事足りる。四番命令に該当する詩は、数篇あった。パブロ・ネルーダの連詩もそうだし、カリル・ジブランの箴言もそうだ。しかしそのなかでもとくにあの俳句は、命令が意味するものと詩の本来の意味とが近い。だからかえって、現実のものではないように思えた。いや、しかし現実だ。あの松尾芭蕉の俳句は、一次関数のような正確さで四番命令に対応している。ギヨンにたどり着いた近世の俳諧師の俳句は、巨大な砂漠を歩ききったラクダのように、ひからびやつれて目の前に横たわっていた。豊穣なニュアンスは抜け落ち、ただ一つの意味だけが残されていた。
<すべてを清算し即時帰還せよ。この命令はくり返されない>
 この命令は、永遠に下されないもののように思っていた。いや、この命令だけでなく、すべての命令が永遠に保留されているものと信じていた。しかし命令は下された。誰が、なぜ、よりによってこんな命令を下したのか、わからなかった。指で軽くデスクを叩き、心を落ち着かせた。イ・サンヒョクが粛清されてからこれまでの十年間、誰も命令というものを下したことはない。イ・サンヒョクが配置したすべてのラインは、ぶつぶつと断ち切られたまま、互いの存在を知らないまま、いや知らないふりをしたまま、自分が生き残ることだけを図ってきたのだ。

光の帝国
 

2017-10-17 (火)