世界の果て、彼女

 黄順元文学賞や李箱文学賞、大山文学賞など数々の文学賞を受賞し、人気若手作家として常に注目されているキム・ヨンスの短編小説集『世界の果て、彼女』(呉永雅訳 クオン)を紹介します。他者を理解することは可能だということに懐疑的で、人は他者を誤解しがちだと考える著者が、他者との「疎通」を意識しながら、軽やかな想像力と感受性、繊細な感覚表現で、日常生活の些細な亀裂、微妙な感情の揺らぎを描いた短編集です。「君たちが皆、三十歳になった時」「笑ってるような、泣いてるような、アレックス、アレックス」、「休みが必要」、「世界の果て、彼女」、「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」、「記憶に値する夜を越える」、「月に行ったコメディアン」が収載されています。

『世界の果て、彼女』                                          419uLYpo+nL._SX359_BO1,204,203,200_                                     

「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」

雲が低くたなびく空一面を赤い夕焼けが染めた、とても特別な日だった。私は、夕焼けを指差しながら、近くで煙草を吸っていた夫と兄に「不思議な夕焼けだわ、そう思わない?」と大声で言った。二人は私が指す方を見たが、私が何を見たのかには気づかなかった。その瞬間だけは、たとえそれが誰であったとしても、私が見た夕焼けを、母が死んだ日の夕焼けを見ることはできなかっただろう。母の苦痛を鎮痛剤だけが理解したように、私の悲しみはその夕焼けだけが理解したと言ってもいい。苦痛と同じように、ほかの人と悲しみを分かちあえないことが、私を絶望させた。
  しかし、絶望すればするほど、それを経験した人の目にはすぐにわかるものだ。私の目の前で消えそうにゆらゆらとうねっていた赤い光は、偶然にも彼の撮った「ナベヅルと
一緒に見た夕焼け」シリーズに入っていた。私の記憶の中で、生の最期に苦痛にあえいでいた母の姿より、明るく笑っている母の姿のほうがずっとなじみのあるものになってきた頃、新聞を読んでいてその写真をたまたま目にしたのだ。最初に写真を見た時は、母がどれほど苦しんで逝ったのか思い出されてつらかったが、人生のある特定の瞬間に私だけが感じたと思っていた何かを、ほかの誰かも見たのかもしれないと思いを巡らせることが、どれほど不思議で、かつ心温まる経験であるかを知った。その写真が私に苦痛だけを呼び起こさせたとしたら、すぐに市内の書店に出かけて彼の写真集を買い、その写真集の写真をそっと切り取って机の前に貼りはしなかっただろう。もちろん、彼が友人や家族だけを撮ってきたことから、「ナベヅルと一緒に見た夕焼け」シリーズが彼の作品の中でとりわけユニークな写真だと知ったのは、評伝を書こうと決めて彼の写真をすべて見た後のことだった。だから、その写真から感じた私の芸術的な感動は、何の先入観もない純粋なものだった。評伝を書くために彼の人生を少しずつ知るにつれ、私は彼のほかの作品も楽しむようになった。しかし、夕焼けを撮ったあの写真を見た時のような、純粋な興奮はなかった。(144頁から145頁)