愛より残酷 ロシアン珈琲

 日中の気温も大分下がり、寒くなってまいりました。
 秋から冬に移行するこの時期は、ホットコーヒーを片手にゆったりと読書を愉しみたくなります。

 コーヒーにまつわる高宗暗殺未遂事件をご存じでしょうか。
 「毒茶事件」といわれているものです。
 ロシア語通訳官金鴻陸(キム・ホンリュク)らがコーヒーに致死量の阿片を混入して、朝鮮王朝最後の皇帝高宗の暗殺を企てます。高宗は日頃からコーヒーを愛飲していたそうですが、そのコーヒーは口にしませんでした。何も知らずに飲み干した皇太子(後の純宗)や女官らが重体となった事件です。
 『私、黄眞伊』をはじめ数々の作品がドラマ化、映画化され、歴史小説作家として活躍しているキム・タックワンは、この毒茶事件をヒントに『노서아 가비(ロシアン珈琲)』(邦題 『愛より残酷 ロシアン珈琲』中野宣子訳 かんよう出版)を書きました。

 朝鮮開国期、通訳官の父親をいわれのない罪で失ったターニャがロシアに行き、父親譲りの語学と篆刻の才能を駆使して、女詐欺師として暗躍します。故郷に戻ってからは、大韓帝国皇帝高宗のバリスタとして王室に入り、陰謀に巻き込まれていく長編小説です。
 フィクションですが、実在した歴史上の人物も多く登場します。登場人物の生き生きとした描写とリズミカルな文章が、読者を混沌とした朝鮮開国期へ導き、自分もターニャといっしょに大陸を駆け巡っているような気にさせてくれます。楽しく一気に読み進められる作品です。

cimg0622

 日本の読者に対する作家の言葉と本文を少しご紹介します。

『愛より残酷 ロシアン珈琲』

 私は、日本の読者のみなさんも、心躍らせながらターニャの生涯に寄り添い、時には明るく笑い、時にはしんみり一粒の悲しい涙を流してくれるものと信じています。私がコーヒーと音楽を友として物語を書いたり読んだりするように、みなさんも、こぢんまりした部屋で一人スタンドに灯りを点し、物語のなかに浸る妙味をご存じでしょうから。
 コーヒーに関する多様な定義を小タイトルにしました。いつもコーヒーと共にいたターニャなら、自分の一生をコーヒーになぞらえて懐かしむのではないかと思ったからです。いつだったかあるコーヒー仲間の集まりで、親しい友人が「コーヒーは五番目の季節だ」と言ったことがあります『ロシアン珈琲』を読み終えたあとに、皆さんもコーヒーに関する自分だけの定義を、一つおしゃれに作り上げていってください。(6頁)

 イワンを助ける機会は、思ったより早くやってきた。
 翌日の午後ロシアの外交官ベーベルが尋ねてきて、思いも寄らない提案をした。
 「殿下は、ロシアンコーヒーが特にお好きです。公使館で直接煎ったコーヒーの味が大変お気に入りです。私の妻の姉、アントニエット・ソンタークがお世話しているのですが、殿下の口にぴったり合うコーヒーを淹れる女性がいません。キム通訳官と一緒にロシアの大平原を駆け巡ったという話を聞きました。コーヒーは飲んでみたでしょう?」
 私は即答を避けて、しばらく別のことを考えていた。
 キム・・・・・・イワンのことか。そりゃ、名前をでっち上げるくらいお手の物だろう。端川の奴婢だったという事実も隠しているのだから、族譜を変えるくらいは難なくやってのけるだろうね。
 「だったら殿下のためにお力添えをお願いできませんか。謝礼は充分にいたします」
 「それは・・・・・・私にコーヒーを淹れる仕事を担当してくれということですか」
 「そうです」
 「それは・・・・・・イワン・・・・・・いえ、キム通訳官と相談した上で・・・・・・」
 ベーベルが言葉を遮った。
 「キム通訳官とはたった今会ってきたばかりです。彼が言うには、ターニャは私の要請を一も二もなく断るだろうとのことでした」
 私は目を大きく開けて、咎めるように尋ねた。
 「私がですか?どうしてですか?」
 「コーヒーなんかを淹れるために朝鮮に来た女ではないと言いました」
 ベーベルの提案がコーヒーを淹れることではなく、酒やたばこの接待だったら、私は丁重に断っていただろう。だけどコーヒーという言葉を聞いたとたん、なぜか父の顔が思い浮かび、冬の風が吹きすさぶ鴨緑江の上で飲んだコーヒーの香りが鼻を刺激し、その味が舌にまとわりついた。私はもちろん忘れていなかった。父の首を西大門の外に晒すよう命令した王は誰なのかを。これまで父を恨みながら、また父の首を晒すよう命令した国王を軽蔑しながら生きてきたのだった。(110頁から111頁)

cimg0618

cimg0619