『殺人者の記憶法』(キム・ヨンハ著 吉川凪訳 クオン)や『七年の夜』(チョン・ユジョン著 カン・バンファ訳 書肆侃侃房)が話題になるなど、韓国のミステリーも日本で注目を浴びつつあります。そこで、韓国を代表する本格推理小説家ソ・ミエの小説集を紹介します。長い間、日本や欧米の作家による推理小説が人気を得てきた韓国の推理小説市場において、著者の作品は、韓国人作家による数少ない本格推理小説といえるものです。
●概略
殺人犯に殺されることを願う男を描く表題作『ありがとう、殺人犯』のほか、血のつながらない娘のために犯罪を犯す父を描く、切なくも心温まる物語『スプーン二つ』、友達が手に入れた莫大な遺産に目がくらんだ女性を描く『秘密を埋める』、犯罪者の典型的人相として作られたモンタージュとそっくりだったために、人生が変わってしまった男を描く『鏡を見る男』など、完成度の高いミステリー、10作品を収録。
●目次
ありがとう、殺人犯
夫を殺す30の方法
匂いを消す方法
殺人協奏曲
ジャングルには悪魔がいる
スプーン二つ
彼女だけのテクニック
秘密を埋める
境界線
鏡を見る男
●主なあらすじ
『ありがとう、殺人犯』
雨降る木曜の夜にばかり起こる、連続殺人事件が発生した。
父親として娘の役に立ちたかった失業中の僕は、自分にかけられている保険金の受取人を妻から娘に変更した。そして、殺人犯との遭遇を願いつつ、雨降る木曜の夜、通りを歩き回るのだった。
ある夜、犯行現場から逃走する殺人犯とぶつかった。足元には、女性の死体が転がっていた。
再び木曜の夜、通りをうろついていると、一台のタクシーが停まり、降りてきた運転手がこう言った。
「死体を見たのは、初めてだったでしょう」
彼だった。犯行現場にいた僕を消しに来たのだ。望み通り彼の手に倒れた僕だったが、今、娘から電話がかかってきている。娘に愛してると伝えたいが、僕には電話を受ける力さえ残されていない。
「ありがとう……殺人犯」
それが、僕の最後の言葉だった。
『匂いを消す方法』
嗅覚過敏症のミヒャンは、隣人、205号の女が飼う犬の匂いに、204号の男は、犬の吠え声に悩まされていた。
ある日、204号の男が蹴飛ばしたせいで行方不明となった205号の犬を探しに、裏山へ向かったミヒャン。犬は見つからなかったが、黒いビニールに包まれた何かを埋める204号の男を目撃した。
部屋に戻ると、どこからか血の匂いが漂ってきた。匂いの元は204号だった。彼女は男に洗剤を手渡した。
「血の匂いは、これで消せますよ」
「実は、犬は車にひかれて死んでいましてね。仕方なく埋めてきました。ひょっとして、床についた血痕をとる方法もご存知ですか? 」
その後、彼女は204号の男が連続殺人犯であることを知る。彼がとろうとしていた血痕は、犬のものではなく、彼が自室で殺害してきた女たちのものだったのだ。
『殺人協奏曲』
夫婦の仲は、氷河期並みに冷え切っていた。
ある日、夫が妻を別荘への旅行に誘った。しかし、夫の本当の目的は、別荘で妻を殺すこと。夫を殺したい妻もまた、旅行が夫を殺す絶好の機会だと考え、旅行に同意する。夫を殺せると考えると、自然と鼻歌も歌ってしまう。そんな妻を見て、夫は、彼女が旅行を楽しみにしていると勘違いし、「女は単純だな」と思う。妻は、妻を殺すことを想像しながらほくそ笑む夫を見て、彼が旅行を無邪気に喜んでいると受け止め、「バカみたいに純粋な男」と思う。
夕食後、暖炉の前に並んで座る二人。暖炉の灯りと妻の香水。非日常のロマンチックな雰囲気にのみこまれ、二人は共に「こんなはずじゃなかったのに」と思いながらも、予定外に愛し合ってしまう。
その夜、別荘は暴風雨に見舞われる。薪が濡れないよう家の中に運び入れた夫だったが、自分が雨に濡れてしまい、熱を出す。妻は、助けを呼びに山を下りるが、途中、崖から足を滑らせ命を落とす。
夫は、妻の鞄にあった鎮痛剤を飲んだ。その直後、異様な眠気に襲われる夫。実は、それは鎮痛剤ではなく、夫を殺すための薬だった。夫は、その事実も、妻が戻ってこないという事実も知らず、妻が帰ってくるまで目を覚ましていなければ、と必死に眠気と闘っていた。
●日本でのアピールポイント
友達への嫉妬、親子間の歪んだ愛情、金銭への執着、夫婦間の確執など、誰もが抱き得る感情が原因で起こった10の事件を、人間味あふれる描写で描いた小説集。
表題作は、2010年に映画化された。中堅俳優ユ・オソンと、ドラマ『コーヒープリンス1号店』でも脚光を浴びたキム・ドンウクが主演。サスペンスコメディとして話題を呼んだ。
短編ながら、どの作品も起承転結がしっかりしており、二転三転するストーリー展開、女性作家ならではの繊細な心理描写は、読者を飽きさせることがない。実際に起こった事件をモチーフにした作品もあり、ニヤリとさせられるウィットを味わいながらも、現実味を帯びた、若干ぞっとするシリアスな雰囲気も同時に味わえる。